反省30年度
昨年度、担任から4月早々にストップをかけられてしまい『学び合い』を封印してきましたが、今年度は3学期からこっそりとフルで始めました。
今年度は転換期もあり、いくつかの『』の会に参加し、実践者から話を聞くことができた点です。
3学期からと言うこともあり、なかなか『誰も見捨てない』と言うことを文化を広げることができませんでした。
多くの実践者から「何を話すかよりも誰が話すかが大事で、子どもらにとって自分がどうゆう存在なのかが大事なんだ」と言われました。
私は、これを難題だと思っています。
私は生徒になめられます。全員ではありません。手のかかる側の生徒にです。「怒っても怖くない」だそうです。
『』のセオリー通り、彼らではなく周りを動かそうと働きかけてきました。しかし、6割は彼らに寄ります。
しゃべり続けて課題をやらない子、最後に答えを写すだけの子、それらを見て見ぬふりの子、先生が注意すればいいと言う子、先生が仕事をしてないと言う子、先生が教えないからできなくて当然と言う子…
終わりの語りの時もずっと話してます。大事な話だから聞いて欲しいと言うと話にヤジを入れてきます。
そんなだと一斉授業が成り立ってないと言われますが、エネルギーはあるので、発問への発言は活発です。これまでずっと学んできた発言すれば発言ポイントアップ。確かに自分には得です。他の教科担たちも「一番やり易いクラスだ」と言っています。
お分かりの通り、活発なのは一部です。
全員ではありません。
西川先生は、『変にオリジナリティを出すと上手くいかないと言っているので、これまではできるだけ忠実にそのまんまを心がけて来ました。
しかし、"失敗本"にもあるように、話をしてくれた実践者の多くも上手くいかない部分を実践者の判断で工夫していることが分かりました。
例えば、うるさくなったら一度止めるとか、振り返りでわからないと答えた子が多いところは次回パワポで説明するとか。
『』は願いだから、工夫しても実はオッケー。『』は魔法じゃないからやったら必ず上手くいくわけではない。難しいです。
と言うわけで、「生徒との関係が前提」となると『』をやっても"上手くできない"教師("上手くいかない"ではなく)もいるのではないでしょうか。
できないからやらないのも1つです。『』がいいと思うから努力してスキルアップしていくのも1つです。来年度は、後者として自分がどれだけ腹をくくれるかです。。